撫川城

別名 高下ノ城
   芝揚城
 泥城
  小倉城
付近住所 岡山県岡山市撫川 現在 撫川城公園
2005/8/17 碑・案内板アリ 日本城郭大系


井上有景 撫川城は泥沼の地に築かれた典型的な「沼城」です。城の平面形状は、東西77メートル、南北57メートルの長方形を示し、幅15メートルの濠がぐるりを巡っています。西半に高さ4メートル強の高石垣(野面積み)東半には土塁が現存しています。また北西隅には、櫓台と思われる石垣の張り出しが見られます。この城は永禄2(1559)年に備中成羽城主三村家親が備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城したといわれています。備中高松の役(天正10[1580]年)には毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなり、当時の城主井上有景と秀吉軍との間で激戦が交わされました。その後は宇喜多の支配下になり廃城となりましたが、江戸時代に戸川氏の領するところとなりました。戸川氏は安風(4代目)で断絶しますが、その弟達富(みちとみ)が撫川領分を継ぎ「庭瀬城」の本丸・二の丸に知行所を設けました。撫川城跡と庭瀬城跡とに呼び分けられていますが、もともとは一体の城だったのです。なお、入口に現存する門は、撫川知行所総門を明治になって現在地に移築したものと伝えられています。昭和30(1957)年5月、県の史跡に指定されました。

                       知行所門

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